2013年12月14日 (土)

親父の三回忌に寄せて

さて、既に大きく時機を逸してしまった感はありますが、どうやら今年は親父の三回忌だったらしい。

近年、母方、父方の近親者がまるでバタバタと立て続けに鬼籍に入る中で、親父の死に様もまたあっという間であった。曲がりなりにも都心のリーマン家庭で世帯主が死ぬと言うのは大変ですよ、主に事務手続きの面で。あらゆる公的機関の書面、対面での処理が必要なので、物理的な作業量も半端ではない。1〜2年は悠長に死を悼んでいる暇なんて無いものと思われる。勤務先の会社から返送されてきた私物のダンボールの山も、当時の姿のまま、生活感の残る部屋の荷物の整理も手付かずのまま。

そういった諸々を含めて、ようやく喪主である母者も落ち着いて来たので、ここいらで当時、その死に際して思い浮かんだところを拙速に書き殴ったまま、宙ぶらりんになっていた回顧録をもっさり発掘。インターネット葬じゃないけれど、こういった形でしか追悼できないのが不憫ではありますが、まあ、ある意味、普通にイビツな家庭で育った私らしくて、それもまた一興ではないかなと。

とはいえ、これは完全に内向的な備忘録であり、自己憐憫ですらあると思うので、ブログのアーカイブとしてライフワークのポインタを蓄積する、という以上の意味はありません。故に、大して面白くもない人生録の一端に目を通す必要はありませんので、以下、まるっと読み飛ばし推奨ですよ。

2011年2月

先月末?今月頭?くらいから入院していた父親が逝った。

会社一筋のサラリーマンだったけれど、外面(ソトヅラ)だけは良くて、家の中ではヤクザかチンピラか、というような真っ当にゴミクズみたいな人間だったので、自分を含めた家族を追い込んだ張本人として恨みこそすれ、あまり悲しいという感情は湧いて来ないのだけれど、でも、そこまでの邪悪な存在だったからこその喪失感はあるし、正直、複雑ですよ。

1月にインフルエンザに罹患して療養していたのだけれど、熱が全く下がらないので検査入院ということになったら、原因が特定できないまま、あれよあれよという間に急変して逝ってしまった。今月末で退職という時期であったし、本人は検査してすぐ帰ってくるつもりだったろうから本人が一番の無念だろうけども、入院日当日なんかは目覚まし時計も止めないまま、トイレの電気も点けっ放しのまま家を出て行ってしまった。最後に家に居た時の面影には酷く哀愁を感じてしまって、そういうクズみたいな人間だったからこそ最期まで憎たらしい存在で居て欲しかったというか。引き蘢り警備員の自分に代わって母者と妹者が色々やってくれているので、落ち着いたら少し話でもしようかといったところ。

ということで、繰り返すところ、端的には喪失感もあるけれど、でも、長年の悪夢から開放されたような、不思議な気持ちですよ。

例えば、あれは私の義務教育も終わらない時代に、家計に給料を入れなくなった時期があって。その時代は定期預金などを切り崩して生活していたのですが、末期には母者が貴金属(といっても、結婚指輪とか愛用の腕時計とか、本当に身近なものですよ)を質に入れたりするような状態だったので、そのせいで今でも我が家には貯えがありません。当時、自分の病気に対しては家族の理解が一切なく、日々責め立てられるばかりで孤独に苦しんでいる間、家計は家計でそんな状態になっているというのは少し後で知ったので、我が家の風通しは最悪であったと言えましょう。

私が通信制高校に進学するとなっても、学費を工面してくれる気配はなく、無心しようものならどんな因縁を吹っ掛けられるか分かったものじゃなかったので(病気と言えども入院していた訳ではないので、見掛け上は不登校扱いが多かった中学時代。「ろくに学校にも行かないくせに、てめえの都合良く金なんか出せるか」といった理屈だったようなので)、私自身が病気を押してアルバイトで学費を稼いでいました。

結局、極々簡単に言えば家庭で立場の弱い女子供がストレス発散の捌け口にされていたということなので、物理的な暴力こそ割合的には少なかったものの、威圧、恫喝、脅迫といった種々の精神的なDVによって家族を追い詰め、彼我の人生をもデストロイした原因の一つだと、私は思っているのですよ(こんな家族なので、極度にヒステリックで放任主義な母者とて問題が無い訳ではありません。勿論、そんな両親に育てられた私もね)。それ即ち、悪夢の元凶であり、憎悪の対象であったということです。


ちなみに、この一年半前には同居していた母方の祖父も亡くなっています。家庭内では親父が巨悪過ぎたものだから一見目立たないのだけれど、元々の"生真面目だが古臭く頑固な性格"に加えて戦争体験が妙な方向に矜持をねじ曲げており、実はこちらも相当難儀な人だった。その時は、こんなメモ書きを残していたなぁ。

2009年11月

パーキンソン病と軽度の認知症を併発していた祖父ですが、二週間ほど前、「脇腹がシクシクする」と云うんで病院の先生に見て貰ったら、膵臓だったかな?の辺りに巨大な腫瘍が見付かったのですよ。

仮に膵臓癌だとしたら「この大きさで普通に生きているのはまず有り得ない」と先方が宣うほどの大きさだったのですが、まあ、恐らくは悪性リンパ腫だろうと。確定には直接細胞組織を採ってみないと分からないのですが、かなりの高齢ということもあり、そこまでやらずに経過を見ようということになったのですが───そうこうしている内に体調を崩して入院、いつ急変してもしなくてもおかしくないと担当医が切迫するほど、あれよあれよという間に症状が悪くなって、あれよあれよという間に亡くなりました。なんかここ一週間で急に悪くなって、急に逝ってしまった印象です。

私がこんな状態なんでね、今更お線香をあげたところで、孫として何もしてあげられなかったのが心残りと言えば心残りかな、と。祖母の認知症状も微妙に進行しているのですが(こうして身近に呆けている様子を見ていると、一般論として、肉体の長寿命化に脳の耐用年数が追い付いていないことを実感するので、正直、この歳で一見すると健康なのもどうなのかと思わざるを得ない)、流石に憔悴しているのでちょっと心配です。

ただまあ、病没とはいえ、大正生まれだったことを考えれば大往生でしょう。モルヒネの影響もあって、ここ数日は意識レベルも低かったようですが、その分、「安らかな眠りに就かれた」という感じなので、身の回りの世話に多忙を極めていた母者を始め、正味なところ、一同、ホッとしてると思います。といっても、喪主やら何やらでまだしばらくはバタバタすると思いますがね。

追記(2022.04.17)

今見てみると随分と拙く、そして遠慮があったのか随分と良いように書いていますね。父親も、そして母親も、基地外でしかなかった、恨みしかない。妹との扱いの違いも含めて、心からの愛情なんてものは微塵もなかったんだなということだけは分かります。

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